最期の瞬間において覚醒している人はとても幸運な人である

最近、ムニンドラ・パンダ先生のインド哲学講座を聴講しています。ムニンドラ先生は、インド哲学を深く学ばれ、過去にはヨーロッパでインド哲学の講義をされていて、現在は日本でインド製品の卸商社の社長さんをされています。そしてご自身の会社の一室で週2回インド哲学を無償で教えていらっしゃいます。 ヴェーダ・スクール http://www.jagatnath.com/index.html

授業は木曜日と土曜日の夕方なので、サロンの営業時間と重なっており、残念ながら直接学ぶ機会にはまだ恵まれていないのですが、公開されている音源だけでもものすごくわかりやすく、多くの気付きを与えてくれます。

サンスカーラ(儀式)に関する授業の中で、人生最期の儀式である  についての講義がありました。

バガバットギーターの第8章の中でクリシュナ神は次のように言っています。

最期の瞬間において覚醒している人はとても幸運な人である。

これはどういう意味でしょうか。

インド哲学では、肉体(粗大な体)は人間の本質ではないとしています。この肉体を持っている間の人生は、人間の本質である魂(アートマ)が、この時代、この人生を通して学びを得るためにやってきた束の間の期間にすぎません。

丁度、旅の目的地に向かう途中で飛行機や電車を乗り継ぐように、魂は悟りへの長い旅をしています。今世とは、前の生から今世に乗り換え、また次の生へ乗り換えていくトランジットのようなものです。

しかし人間は肉体(粗大な体)をもって経験している世界をすべてだと思っているので、誰もが生れて死んでいくにもかかわらず、自分が”生まれたこと”と”死んでいくこと”について想像することができません。

そしてこのことに気が付ける唯一最大のチャンスが肉体の終わりを迎える死の間際だというのです。

人生はマーヤー(夢)である

肉体(粗大な体)を持っている時、人間は常に欲望を満たそうと生きています。

例えば、子どもが欲しい、お金が欲しい、いい家が欲しい、と思っています。

しかし、そうやって努力して自分のものになったと思っているすべてのものは死とともにある日全部なくなってしまいます。

この人生色々計画して実行してきたことが、全部夢にすぎなかったということを知るのが死ぬ間際に与えられたチャンスです。

苦労して働いて貯めたお金、長年の友達リスト、会社の何もかもが無に帰してしまうことを死の瞬間に思い出します。

これが人生が夢であるという意味です。人生のどの瞬間にも夢を見続けていて、ある時死によって夢は終わってしまいます。

もし死の瞬間に目覚めることがなかったら、次の人生でもその夢の続きをはじめてしまいます。

だからこそ、夢見る人のまま死んではいけません。この人生は単なる夢にしか過ぎないという事を理解して、幸福に亡くなっていけばその人は悟りを得た人となります。 私はこの世界にアートマとしてやってきました、そしてアートマとして帰っていかないといけません。

人生最期の思いを生まれかわった生でも続けることの聖典の例

ラーマーヤナ物語より

苦行者としてラーマ(ヴィシュヌ神の化身)が森に入る時、ある川を渡らなければなりませんでした。

そこで、ラーマは船頭に船に乗せてほしいといいましたが、船頭はできないといいました。

船頭は、ラーマの足にほこりがついているから乗せられないと言いました。ラーマが石に足をのせた時、石は女性になりました(呪いで石にされていた女性を呪いから解放した)。あなたが船に足をのせてもし船が女性になったしまったら、私には既に妻がいるのにさらに女性を迎えることになり問題がおきます。さらに生活の糧である船がなくなってしまったら、女性が二人になって支出が増えるのに生きていけません。

ラーマに仕えている弟のラクシュマナ(シェーシャナーガ・ヴィシュヌ神の使いの化身)はそれを聞いてばかげていると船頭を怒りました。ラーマは常に石の上を歩いているが、石が全部が女になるということはないし、あなたの舟は木でできていてそもそも石ではないといいました。それに対して船頭は怒って、私はラーマと話していてあなたと話していないと言います。

この船頭は、船頭の姿をしていますが実際はビッギアーニ(聖者)です。ビッギアーニとは完全に意識的であり知識で満ち溢れている人です。船頭は前の人生を完全に意識した状態で亡くなりました。

船頭は前の人生で神(ヴィシュヌ神)の元へ行き神の足を洗おうとしましたが、シェーシャナーガ(ヴィシュヌの使いの蛇)がそれを見て神を邪魔していると感じて彼を殺してしまったのです。そこで彼は次の人生では、自分からは神の元にはいかないで、神が私の場所に参られますようにと思って死にました。

ですからヴィシュヌの化身であるラーマが、船頭として生まれ変わっている彼のもとにやってきたことは、船頭の前世からの夢が叶っている瞬間なのです。船頭は前世からのことを全部覚えていました。だからこそラクシュマナに言います、”前の人生であなたに殺されました。もしまた殺されてもいいです。ただ私はまた次の人生でもこれを繰り返します。”

人生最期の瞬間の過ごし方

人生最期の瞬間の例え

ある人が寝ながらいい夢をみて楽しんでいました。その夢を見ている間になんと家が火事になってしまいます。でも寝ている人は夢に夢中になっているから気が付きません。その時、友達は家が火事になっているのを見て、中に友達が寝ているに違いないと思います。そこで友達は危険を冒して家に飛び込み、ぐっすり眠って夢を楽しんでいる友人を見つけます。友達は寝ているところをひっぱたいて起こそうとします。 寝てた人は”何でいい夢見てたのにひっぱたいたんだ”と怒ります。 友達はもう一度ひっぱたきます。 寝ていた人は益々怒って友達を殴り返そうと思って起き上がり、家が燃えていることにやっと気がつきます。 そして寝ていた人は命を助けてくれた友達に感謝します。 私は生涯あなたに殴られたことを覚えているでしょう。そして感謝します。

今のは例えですが、実際の死の間際、燃え盛る火の中に飛び込んできて目を覚まさせてくれるのはだれでしょうか。

それほどのリスクを冒してくれる存在はもちろん、私のことを真に愛してくれている人です。

それは聖典です。聖典は人間の目を覚まさせてくれるものです。

人生の最期の瞬間まで聖典を学ばなければなりません。

人生最期、多くの人は意識がなくなるのに聖典はどうやって勉強できるでしょうか。

生徒の質問

現代はほとんどの人が病院で昏睡状態になってから亡くなります。昏睡状態になってしまったら聖典を勉強することはできないのではないのでしょうか。

先生の答え

99%の人がそのような死を迎えるからといって、自分も同じように死ぬと考えることは間違っています。

確かに99%の人は死の間際に無自覚であり、死について気づいていないし、気づきたいと思っていません。人生の最後の瞬間まで死にたくない、もっと人生を楽しみたいと思ってしまいます。また、死の瞬間を意識したいと思う残り1%の人でさえも、プラクリティ、マーヤが様々な問題を起こしてくるため死の瞬間を自覚するのは困難です。

死が目前に迫っている人は非常な苦しみを感じています。死の間際にはすべてのヴァータ、ピッタ、カファが非常にうごめいています。その時、死にゆく人を見たまわりの人々は急いで病院につれていこうとし、誰もが助けようとしてしまいます。そして死にゆく人を数週間でも長く生きられるようにしようとします。しかし実際は寿命をのばす能力など人間にはなく、すべての人の死の瞬間は決まっていて寿命のとおりに死んでいきます。

あと10分病院に到着するのが早かったなら助かったのに、こんなことになる前にちゃんと健康診断を受けていれば・・・としばしば言われます。

それ自体が悪いとは言いませんが、それよりは人間の体において少しでも健康に長く生きられるように祈るべきです。つまり、死の瞬間を1秒たりとも伸ばすことはできないと分かった上で努力すべきです。

**寿命は変えられないという事を知らない人が、亡くなりそうな人を少しでも長生きさせようと思って邪魔しているのです。これらの無自覚な人が亡くなりつつある人の最期の瞬間を邪魔してしまいます。

意識的な人は自分の最期の瞬間に気づいています。そして意識的な人は最期の瞬間に聖典の勉強をします。

死にゆく人の見送り方

生徒の質問

もし目の前の死にゆく人がいるとしたら、どのようにして見送るのがよいでしょうか。

先生の回答

見送られる人が信じていたことをやってあげるのが良いです。例えば信じていた宗教のお経を唱えてあげるなどです。もし死にゆく人の意識が既にない状態なら、あなたがその人にとっていいと思うことをやってあげるのが良いことです。

プルシャメーダヤッギャ 火葬の深い意味

神を信じる信じないは別として、死だけは誰もが信じざるを得ない真実です。

ヴェーダでは、亡くなった人を火葬することを、ナラメーダヤッギャ または プルシャメーダヤッギャ といいます。サンスクリット語でナラ=人間、メーダ=犠牲にすることを意味します。

人間の死んだ粗大な体を供物として火神アグニに捧げます。

粗大な体である肉体は小宇宙と言われます。なぜなら宇宙も人間の肉体も同じ五大元素からできているからです。そいういう意味では小宇宙である人間の肉体(粗大な体)の重要性は大宇宙とかわりません。

ということは、大宇宙に存在している神々や女神たちは小宇宙である自分の体の中にもいるということです。

ですから、亡くなった肉体(粗大な体)にいた神々を、遺体を火葬することで、火の神様アグニ神へ供物として捧げ、アグニ神を通じて大宇宙にいる神々に送り返すことになります。それがナラメーダヤッギャ、火葬することが遺体を供物として捧げているという意味です。

ヴェーダでは、重要な儀式を執り行う喪主のことをカルタといいます。故人にとって大切な息子や兄弟は近しい人がカルタとなって、故人の口にまず火を入れます。(ムカアグニ)

アグニ神は私たちの口の中にいらっしゃいます。そして、ビラータプルシャ(全宇宙の神) の口に住んでいます。ピラータプルシャとは、全宇宙が同じ一つの神となり、一つの体となることです。

カルタは、アグナエスワハー ヴェーダマントラを唱えます。そうして遺体(粗大な体)に密接する神々をそれぞれの神々におくりかえしていきます。

目、視力は、太陽神のもとへ

プラーナ 生理機能は風の神へ

鼻 嗅覚はアシュウィン双神へ

聴覚は、空間の神へ

舌 味覚は、ヴァルナ神へ

様々な活動をする手は、インドラ神へ

生涯移動に使っていた脚力は、ヴィシュヌ神へ

生殖能力はプラジャーパティ神へ

排泄器官はヤマ神へ

話す力は、サラスワティ神へ

このように遺体(粗大な体)にあった全ての小宇宙の力は大宇宙へ、対応する神々へ送り届けるのです。

もし、これが正しく執り行われなかったとしたら、故人が生まれ変わる時に各パーツが戻ってくることができないかもしれません。

正しく送り返してくれなかったら神々はゴミにされたと思って次の人生でその人のところへいきたいと思いません。

太陽神に視力を返さなかったら次の人生で盲目になるか、視力が弱くなるかもしれません。

このように人生において最も大切な瞬間は死にゆく時であり、それを見送る人にとっても重要な時であることがわかります。