ある人のブログでおすすめされていた一冊を読んでいたところ、その世界観がヴェーダのスピリチュアリティとそっくりで驚きました! しかも、難しいスピリチュアリティの概念をわかりやすく意訳されていたのでヴェーダの概念と比較してみたいと思います。

あくまで私の理解の範囲内ですので間違っている可能性があることをご了承下さい。

老子道徳経 第1章&第5章 タオ≒アートマン

タオとは、「自分」という境界が消えたときに明らかになる、あるがままの存在の本質、そして、それを永遠に動かし続けているエネルギー 人は現実に名前をあてはめ、区別するから、様々な存在は別々であると思ってしまう。 だからこの世界を切り分ける観念という境界線は本来ないことを知ればあらゆる存在は「ひとつ」に還る。 自我も同じ。名前があるから自分と他人があると思ってしまう。この自分から対象があるところに「欲望」が生まれる。第1章

人は肉体の中に命があると解釈するが、本質は個々の命という区別がなく、存在すべては繋がっていて、大いなるそのもの命の内に人がある。 肉体に命があると解釈する我々は、ここの生死が繰り返されていると思い込むが、本質は絶え間ない宇宙の呼吸があり、奪われる命も与えられる命もない。第5章

タオからひとつの「氣」が生じ 氣の性質から「陰陽」という極が生じ 対極する「陰陽」は「均衡(バランス)」を生じそこから万物が生じた。第42章

普段私たちは自分の肉体を自分だとみなしています。

その証拠に現代医学では、心肺停止をもって生命は終わりだとしています。

一方、タオとは、「自分」という境界が消えたときに明らかになる、あるがままの存在の本質としているように、老子もあるがままの存在の本質とは、「自分」と認識している世界の中にはないとしています。

アーユルヴェーダでは人間は、肉体・心・五感・魂からなるとしています。 スマホに例えるのであれば、スマホ本体は肉体、心は充電コード、魂は電力(エネルギー)です。

スマホを楽しめるのは、本体が充電コードを通して充電されているからです。充電が切れたら全く使い物になりません。

人間の場合では、肉体レベルで起きていることは全て、心を通して、魂からエネルギーがチャージされていることによります。

もし魂からのエネルギーが切れてしまったら肉体は死を迎えます。

スマホが壊れたら新しいものを買って前のスマホと同じように充電して使うように、肉体も死を迎えたらまた新たな肉体を得て魂は輪廻転生を繰り返すとしています。

つまり本質的な変わらないものは、肉体にはなく、肉体を動かしているエネルギーが存在の本質としています。そしてそれをヴェーダではアートマンと呼んでいます。

老子道徳経 第2章 解釈(徼 きょう)とサンスカーラ

何かを美しいと感じる時、対比としての醜さがある。 目から入ってきた光刺激を脳が記憶と照らし合わせ、識別し、美しいとか醜いと解釈する。 この解釈は自動連想ゲームで瞬時になされる。問題は比較して識別することで、「満たされなさ」が生まれること。 そしてその解釈は人の数だけ無数にあり、決めつけや思い込みが強いほど人生は深刻で窮屈になる。

人は何かを経験する時、様々に受け止めます。その時に、これは好き(ラーガ)、これは嫌い(ドゥエーシャ)というように自然と分類分けしています。経験自体は忘れても、経験に伴って感じた体験の印象は記憶のストック(チッタ)の中にずっと残り続けます。そして今世に体験したものに限らず、過去世において体験した経験の印象もまたストックされています。この体験の印象のことをサンスカーラといいます。

感情はサンスカーラから湧いてきます。つまり日々新しいことを経験しているにもかかわらず、脳は過去の体験と照らし合わせて自動的に好き、嫌いの感情がわいてくるのです。だからこそ、例えば何かを食べて”超美味しい!!”と過度に心を刺激すれば、体験していない時に不満が生まれ、いつでもまたあれが食べたい!!という衝動がおそってきます。

しかし五感からのインプットはいつでも刹那的で永遠に続くものなどありません。その刺激を求め続ける限り心はいつも「満たされない」と感じます。

老子道徳経 第2,3,12章 あるがままを目指す

タオを生きる人は「自分」という境界線を作らず、存在が全体に溶け込んでいるから、「私がしている」という感覚はなく、それ故「自分のため」という感覚がないので、見返りを期待することがない。

より良い人生を目指すということは、より悪い人生があると区別する気持ちが背景にある。そこには常に軋轢や競争が生まれる。 思い込みの自己実現にがむしゃらになるのをやめ、あるがままの流れに任せておけば人は自然と適材適所に収まる。 満たされない気持ちが大きいほど欲望は強くなり、より刺激を求めてきりがない。 タオを生きる人は、内なるものを大切にし、外からの刺激を求めず、あるがままを生きる。第12章

「満たされなさ」の正体を知を知り、五感からの刺激に過度に反応しないように努めます。好き・嫌いのラベリングを少なくしていくとで私が私がというエゴ(アハンカーラ)は鎮まり存在の本質とつながりやすくなります。

老子道徳経 第4章 空間に愛と命が満ちている

空間があるから全てが存在している。空間は無限で分け隔てなく無条件に受容してくれる。無条件に受け入れることが愛。

ヴェーダでは宇宙は5つの元素、空・風・火・水・地から成り立つとしています。宇宙のはじまりにはまず「空(くう)」スペースができました。スペースがあってはじめてあらゆるものはその中に存在することができます。空間の中には、空気、熱、水分、粒子など他のすべての要素が入っているからこそ命は生きることができ、また空間が中にいる存在を拒むということはありませんので、それはまさに必要なものすべてを無償で提供し続けてくれている愛そのものです。

老子道徳経 第6章 「妙(あるがまま)」は、始まりがない

人はいつ生まれたのか?受精卵は出来た時点で生きていて、その前の卵子と精子も生きた細胞であることを考えれば、自分が生まれる遥か前から命はあり、始まりは見つけられない。始まりがなければ、終わりもない。だから人間の生死は、個人をベースにした解釈にすぎない。 命は肉体に宿るのではなく、形なき空間に満ちていて、延々とあり続けている。

再生医療が注目されていますが、人間は生きている細胞から生きている組織を作る事には成功しましたが、未だゼロから生きた細胞を作り出すことができません。

そもそも生きている細胞が生まれる背景には必ず生きている細胞が必要で、その生きた細胞の命のレースは連綿と続いており、私たちが存在するより前にそれは存在していて、始まりを知ることはできません。

老子道徳経 第7,8,10章 時を超えて水のように徳(ダルマ)を生きる

時間もまた思い込み。 「過去」は記憶や記録 「未来」は希望や予測 どちらも解釈であり、存在は今にしかない。 過去や未来という時間の観念から解放されれば、生き急ぐ必要がなく、 人として生を全うするのではなく、生として人を全うするうちに、自然と「自分のこと 」がなされていく。第7章 利他的も解釈が前提にあるから、善の押し付けになる。 水は万物に恵を与えて潤すけど奢ることも争うこともなく、低いところにいる。流れに任せて作為がなく、形であって形でない。 タオに沿って生きることは、思い込みを鎮め、心は静寂で、ここぞというタイミングを逃さずに行動する柔軟さを大切にすること。第8章 タオを生きる人は、 誰かを救おうとか 改心させよう 成長させよう とコントロールすることがない タオは万物を生み出し繁殖させるが、 それが成長しても我が物としない。 万物の創造主でありながら、支配者を気取らない。 意図を持って働くのではなく、 摂理の働きとともにある これが徳。10章

ヴェーダでは今世、肉体を持って生まれてきたことの意味としてダルマを果たすことを教えています。ダルマとは生まれてきた使命であり、それは人それぞれに違います。自分が何のために生まれて来たのか?自分のダルマは何なのかを知るためには、心を欲望からクリアーにして存在の根源(タオ、アートマン)と繫がり、今を生きることでなされていきます。とはいえ、ここが中々難しいところなので、少なくとも1日10分でも15分でも静かな場所と時間を選んで瞑想することからはじめます。

老子道徳経 第9,18,19章 心を「今」に向けて生きる。

「今」という唯一存在する世界の中に過去を引き留めるすべはない。無理に留めようとすれば苦しみが生まれてしまう。 変化に抗うことなく、流れのままに「今」を生きる。第9章

ストレスは全部「過去と未来」にある。 「今」の中にはストレスは生まれない。第19章

頭の中で繰り広げられる「思考」に意識を向けて観察してみる。 思考は意志とは無関係に沸いてくる。それをいちいち相手にしない。 思考をただ観察しながら、思考と思考の間に「空間」が見つかる。 この空間にある静寂が、存在の基盤。 この静寂に還ることが、平常。第18章

心の働きは”思考”することです。つまり目が覚めて意識がある間は常に”思考”が浮かんできます。この”思考”を止めようと思っても止めることはできません。しかし、思考が浮かんできたときにそれを空に浮かんだ雲を眺めるように観察するよう心がけると、思考と思考の間にあるギャップ「空間」に入ることができます。この「空間」こそが「無」であり「存在の基盤」です。

老子道徳経 第22,23,32,76章 天に明け渡す

タオの人にも喜び、憂い、悲しみはやってくる。こう思ってはいけないと平静を装うことはしないから、心の動きに抵抗しない。素直に感情を受け入れて味わうことができる。 23章 人は生まれてきた時は柔軟でふにゃふにゃしてるけど、死んだ時は硬くこわばっている。 草木や他のものも、生まれてきた時はしなやかでふっくらしているが、死んだ時は枯れてカサカサになる。 硬くこわばっているものは「死」のグループで、柔らかくしなやかなものは「生」のグループ。 木の幹は大きくて強く下位に属し、柔らかで弱い小枝は頂点にある。76章

肉体を持っている限り、生老病死から免れることはできません。ですから、存在の根源(タオ、アートマン)に目覚めた人であっても感情がなくなるわけではありません。ただその湧いてきた感情を否定もせず、コントロールしようとせず、そのまま受けとめます。

人間は解釈を通してでしか世界を把握できない。だからこそ、特定の解釈に固執せず、柔軟性をもつ。 人生は思い通りにはならないけど、 どんな状況であっても満たされている と解釈することはできる タオはあらゆるものが流れつくところ。 あらゆる川の流れが自然と大海へと導かれるのと同じように、舵をとらなくても自然と導かれる。第32章

いかがでしたか。 冒頭にも記載した通り、あくまでこれは私の解釈ですので、正しいとは限りません。 ただ古くからある教えの中には、多くの共通点があります。そして、老子の教えを知ることでヴェーダの教えがより身近にわかりやくなったと感じたので比較してみました。