バーガヴァタ・プラーナ第11巻第14話31章32~46では、ウッタヴァ(クリシュナ神の従兄弟)がクリシュナ神に瞑想はどのようにしたらいいのか質問しています。
ちょうど良き高さの平坦なところに、姿勢を正して安らかに座り、両手の平を上に向けて、それを膝の上に置き、眼は鼻頭を見つめて、感官を制御しながら(プラッティヤハーラ)、気息(プラーナ)の通り道を、プーラカ(ゆっくりと息を吸う)、クンバカ(呼吸を止める)、レーチャカ(ゆっくりと息を吐く)の3段階の呼吸調整(プラーナヤーマ)によって浄化していき、次にそれを反対の順序で行い、そのことを幾度も繰り返していく。
様々な瞑想法がありますが、クリシュナ神が説いている瞑想法には、特に決まった姿勢やムドラー(手で韻を結ぶ)がないというのは面白いところです。これであればハードルが低く、膝を痛めていたり、体が硬くて結跏趺坐(けっかくざ 胡坐から両足を膝にのせる)が組めない人でも実践可能です!また目を完全に閉じてしまわないのは、目を閉じてしまうと心が妄想の世界に入ってしまいがちになるので、薄目は開けて鼻頭をみることに集中します。完全に目を閉じてしまわないというのは座禅もそうですよね。
やり方はとてもシンプルですが、感官を本当の意味で制御する(プラッティヤハーラ)には修業が必要です。
さらに続く部分は複数の解釈があり、解説でもヨーガの実践者にしかわからないとしているように、私にはまだまだ理解できません。。。汗
美しく繊細な蓮華の茎のように、妨げられずに鈴の音のように鳴り響くプラナヴァ(聖音オーム)を、気息(プラーナ)を媒体と用いて、それに鼻音(オームの音の最後の部分)を付け加えて、心臓まで持ち上げていくのだ(そして胸のあたりに顕現させる)。
※鈴の音?と思いますが、ナーダビンドゥ・ウパニシャッドの中に、”聖音オームは初めにおいて雲の轟のように激しい音だが上方に行くにしたがい、鈴の音のような優しい音に変わる。”とあるのでこのことを言っていると思われます。
こうしてプラナヴァ(聖音オーム)を加えて呼吸を制御することを、1日3度(朝、正午、夕方)10回ずつ実践したならば、彼は1か月以内に呼吸を管理できよう。
たった10回を1日3回やりなさいと教えているのが現代人は中々難しいですよね。とはいえ、やるしかありません!
悟りを得て輪廻転生(サンサーラ)から抜け出すためにクリシュナ神はバクティ(献身、愛)の道をすすめます。バクティとは、クリシュナ神だけに心を向け、すべてを捧げることだとしています。とはいえ、人間は物質的に認識できるものしか理解できません。クリシュナ神の瞑想の最終段階では、クリシュナ神のことだけに心を向けられるよう、実に詳細にクリシュナ神の姿を描写しています。クリシュナ神はあえてその姿を見せることで粗大なレベルから微細なレベルへ瞑想を深めることを導いてくれています。
茎を上に向けて逆向きに存在する、蓮華の蕾のような心を身体の中に思い、その蕾が瞑想にて上方を向き、八つの花弁と果皮が順次開いて行った時、その中心に太陽を、その中に月を、さらにその中に火があると想像して、最後にその日の中に、瞑想するにはまことに喜ばしき、次のような私の姿を思い描くのだ。 それは良く均整のとれた、穏やかで優雅な姿をしており、顔には魅力ある表情を浮かべて、美しく長い4本の腕を持ち、形良き繊細な首と、美しい頬、明るい笑みを、唇にたたえているだろう。 また両の耳にはマカラの耳飾りが輝き、金色に輝く衣を身にまとって、肌は雨雲のように青く、胸の上にはシュリーヴァッツァ(白い巻き毛)とシュリー(金色の稲妻)が見られるだろう。 さらに法螺貝と円盤、槌矛、蓮華を手に持ち、ヴァナマーラーの花輪を着けて、足にはアンクレットが巻かれ、胸に輝くカウゥトゥバの淡い光で、身体全体を覆われているだろう。 そして光り輝く王冠と腕輪、帯、アームレットを飾り、あらゆる優雅さを備えて、表情は優しく、慈悲深き目を投げかけており、その美しき姿は見るものを魅了せずにはおかないのだ。このような私の姿を細部に至るまで思い描いていくのだ。
クリシュナ神のことを詳細にイメージできたらさらにそのイメージする対象を顔のみに向けます。マハーバーラタにこのステップを連想される有名なシーンがあります。ある時、ドローナ師が生徒たち一人一人に木にとまっている鳥に弓を構えさせます。そして”今何がみえるか”と聞いていきます。生徒は”鳥と木と先生の足が見えます””木の枝と葉と鳥が見えます”などと答えていきます。最後に一番弟子アルジュナが呼ばれ”今何がみえるか”と聞かれたところ、アルジュナは”鳥の目だけが見えます”と答えます。本当の集中とは、集中する対象ピンポイント以外の情報は何もなくなるということを示しています。
賢者ならば、身体をいう馬車の御者となり、心を用いて感官を対象から切り離し、その心は理性によって全てから引き戻して、最後にそれを、以上述べてきた、私という全人格に集中させるべきだろう。私という全人格に広げたその心を、他の部分を思うのを止めて、一か所のみに集中させ、笑みを浮かべた、私の顔だけを思うようにするのだ。
そして主の物質的な姿から、さらに主の本質である宇宙の原因へと心を向けて、最終的にはその存在と一体となることがバクティの究極の目的です。
こうして集中させた心を、さらにそこから引き離して、最高の原因へと向けていき、最後にそれをも超越して、主である私と一つになり、それ以外を思うのを止めるのである。こうして心を私に確立できたなら、その者は自分の中に私がいるのを見て、火の粉が炎に溶け込むように、最高の大霊(パラマートマー)である私の中に、自分が存在するのを見るであろう。 このような瞑想で私の心を集中させたヨギーは、やがてニルヴァーナへと至り、もはやその者の心からは、物質と知識、そして行為(または見るもの、見られる対象、見る行為)に関する誤謬は、直ちに消え失せるであろう。
以上がバーガヴァタ・プラーナの中でクリシュナ神自らが教える瞑想法の一部始終です。とはいえ、他の宗教の人やクリシュナ神のことを知らない人は悟りを得ることができないのかというとそんなことはありません。
バーガヴァタ・プラーナの他の部分でクリシュナ神は次のように言っています。
人はいつ如何なる時でも、どんな像でもよいから、自分が選んだその像を通して、私を礼拝すればよいのだ。なぜなら、私は宇宙の大霊(アートマン)であり、それゆえ全ての被造物の中に、さらに礼拝者の中にも存在しているからだ。バーガヴァタ・プラーナ第11巻第27章42-48
神の存在を信じ、心から礼拝するのであれば、すべては神の創造物であることにおいては、どの神様、どの神像を礼拝してもよいということです。
いかがですか。つい最近までは、日本人の私たちにはこのようなヴェーダの深い話を知る機会はなかったのではないでしょうか。現代ではヴェーダの多くの文献が日本語でも読めるようになっており、多くの先生が日本に来日してヴェーダの教えを学ぶことが可能になっています。
ヨーガに興味を持つ人が増えていること、ビジネスの世界でも瞑想を取り入れる企業が増えていることなどを考えると、今後ますますヴェーダの智慧が注目され学びを深めることができるのではないかと期待します。