タイトル画像 南インドのアーティストN.S.ハルシャ《千の手と空(くう)》拡大
人生の4つの段階(アーシュラマ)
ヴェーダでは、再生族(ブラーフマナ、クシャトリア、ヴァイシャ)が生涯を通して通過する4つのアーシュラマ(住期)とそれぞれの義務を説明しています。
ブラフマチャーリー(学生期)
↑実写ドラマラーマーヤナより ラーマの4兄弟が太陽族の聖者ヴァシシュタの元へ入門する様子
再生族の男子は、受胎から始まる浄化の儀式(サンスカーラ)を経て第2の誕生である聖紐式(ウパナヤナ)を終えたのちには教師の家に住み込み、感官を制御してヴェーダを学修し、教師の教えに従いその解釈を学びます。
※この時代には先生に生徒として学ぶことを許されたもののみが、聖紐の儀式を行った上で、先生の家で寝食を共にしながらヴェーダを学ぶことが許されます。
ブラフマチャーリーの義務とは自分の先生に奉仕することです。
生徒は、ムンジャ草の帯を腰に巻き、鹿皮を上着と用いて、ルドラークシャの数珠を持ち、左肩には聖なる紐をかけ、木の杖と水壺、クシャ草の束をその手に持つようにします。そして肉体への関心を過度に持たないようにするために、頭では髷を結い、歯は磨かずに、衣服は洗わず、彩色された席に座ってはいけません。
沐浴する時、食事を摂る時、祭火に供物を注ぐとき、ジャパ(マントラの詠唱)を行う時、排泄をする時には沈黙を守り、爪は切らず、腋毛や陰毛を剃ってはいけません。
厳格な禁欲の誓いを守り、故意に射精してはいけません。夢精した場合には、水に入ってプラーナヤーマ(呼吸制御)を行い、ガーヤトリー・マントラを唱えます。(数珠を数えながら少なくとも108回)
朝と夕方には毎日身体を浄めて、心を平安に保った後、心静かにガーヤトリー・マントラを唱えて、火の神と太陽神、アーチャーリヤ(聖なる紐を授けてガーヤトリー・マントラを教えた教師)、乳牛、ブラーフマナ、グル(シャーストラ(聖典)を教える先生)、年長者、神々に礼拝を捧げます。
先生は神様そのものだと理解して、軽んじたり、あら捜しをしてはいけません。
朝と夕には施しを集めて回り、受け取ったそれらを先生へすべて差し出して、自分をよく管理した後、許可されたものだけを口にします。
両手を合わせて先生の後に従い、先生が横になる時や、座る時、立つ時などその側を少しも離れずに小間使いのように奉仕します。
このように楽しみに耽らず禁欲の誓いを守りながら、ヴェーダの学修が終わるまで先生の家に住み続けます。
ヴェーダを十分に学んで、タパス(苦行)によって、カルマを燃やし尽くして、障害の禁欲を守れば、その肉体は炎のように輝き、すべての汚れを除かれて神のもとに至ることが約束されています。
もし家長生活に入ろうと思う場合は、ダクシナー(報酬)を先生に捧げて、許可を得た後、サマーヴァルタナ・サンスカーラ(学修を終えた時に沐浴を行う儀式)をします。
純粋な心を持つ人は、この世を放棄して托鉢遊行僧(サンミヤーシー)となって良いとされていますが、それ以外の人は順々に進むべきとされています。
グリハスタ(家長期)
↑実写ドラマラーマーヤナより ラーマとシータの結婚
グリハスタ(家長)の義務とは生き物を守護して、祭祀を行う事です。また懐妊にふさわしき時期を除いて禁欲をまもり、苦行を実践し、心と身体を純潔に保ち、足ることを知り、すべての生き物へ慈悲を示し、それらを守ることです。
妻として何一つ責められる点がなく、自分よりも年は若くて、自分と同じヴァルナ(身分)の女性を選びます。自分と異なったヴァルナの女性を選ぶ場合には、同じヴァルナの妻を娶った後で望む女性と結婚してよいとされています。
祭祀の実施、ヴェーダの学修、贈り物の授与、これらはすべての再生族にとっての義務です。
家長は、神々やリシ、祖霊、他の生き物を、神の顕れだとみなして自分の財産に応じて毎日、神々にはスワーハー(帰依します)と唱えて祭火に供物を注ぎ、リシにはヴェーダの学修と詠唱(ブラフマ・ヤジュニャ)を行い、祖霊にはスワダーと唱えて水を供養して、生き物には食べ物を恵み、客人には食事を提供することで主宰神を礼拝します。
健全な精神を供えた家長は、家族に愛着せず、妻や息子、友人、親族は一時的にともにクラス旅人と同じでいつかは滅びることを知っておくべきです。家庭にあっても客人のように暮らしながら、「自分」とか「自分のもの」というも胃を持たずに家庭に心を縛られず自由な心境で生きます。
家長としての義務を立派に果たした後は、家庭に留まりながら主を礼拝するか、跡取りの息子がいる場合には森に隠棲するか、世を捨てて遊行僧となり世界を放浪します。
各ヴァルナの生活の手段
ブラーフマナ
贈り物を受け取ること、ヴェーダの教授、祭祀で祭官を務めることで生活します。 もしそれらが栄光、名誉を貶めると思う場合は他の2種の職業を選ぶか、収穫の終わった畑に残る穀物だけで生活します。 困窮した場合には売るに値するものを売ったり、商人の道を選んでもよく、苦難に圧倒された場合には剣によって生きることも認められます。 しかしシュワヴリッティ(自分より低いものに仕える)ことはすべきではありません。
クシャトリア
困窮時にはヴァイシャの仕事である商売や狩人、ブラーフマナの仕事(他人への教授など)で生計を立ててもよいです。 しかし卑しい仕事を選んではいけません。 また困窮を抜けたなら他から非難される仕事で生計を立てるべきではありません。
ヴァイシャ
困窮時にはシュードラの仕事を行っても良いです。
シュードラ
困窮時にはカールスの仕事であるムシロ職人になっても構いません。
ヴァーナプラスタ(林住期)51-75才
↑実写ドラマ ラーマーヤナよりラーマは森へ追放され妻シータと弟ラクシュマナとチトラクータで生活をはじめる
**妻を息子の世話にゆだねてただ一人で、または感官を支配して妻とともに森で暮らします。 ヴァーナプラスタの義務とは、聖典(シャーストラ)が定める苦行を実践して神理を会得することです。
際火への供物となるような、野生の球根(ジャガイモなど)や根、自然と熟した果物だけを口にします。 食べ物は火で焼いたものか、自然と熟した果物を、臼でつぶしたり、石で粉々とするか、歯でつぶして食べます。 いつ何処で食べ物を手にできるかと木と場所を十分に心得て、自分の消化力を理解した上で生存の糧を得るよう努めて、あらかじめ食べ物を蓄えてはいけません。
衣服は木の皮や布、草や葉でできた衣や、鹿の皮を用います。
髪の毛や体毛、爪、顎髭、口ひげは伸びるに任せて、身体の汚れを落とさず、歯を磨くこともなく、日に3度(朝、正午、夕方)に沐浴を行い、夜は大地の上で眠るようにします。
季節ごとの苦行として、夏には5つの火(四方に火を焚いて頭上からは太陽の熱を受ける)に身をさらして、雨季には雨に打たれ、冬の終わりに2か月には首まで水につかります。
家長と同様、以下の祭祀は引き続き行います。 アグニホートラ 毎日 ダルシャ 新月 プールナマーサ 満月 チャートゥルマーシャ 季節毎
このように人生の最期まで森の中でタパス(苦行)を行ったなら、死ののちに悟りを得るとされています。 もし身体が揺れるほどに老齢となり、誓戒(スワダルマ)も果たせなくなった場合には、3つの祭火を自分の中に引き戻し、神に心を結びつけて火の中に入っても良いとされています。
サンニヤーシー(遊行期)
↑実写ドラマラーマーヤナより 森へ追放されたラーマ達は来る日来る日も森をさまよい続ける
純粋な放棄の心を持ち、主宰神のもと以外の高い世界(ブラフマー神の世界)などにも嫌悪感をいだくなら、祭火を自分の中に引き戻し、 サンニヤーシー(托鉢遊行僧)となってもよいとされます。
聖典(シャーストラ)の定めにのっとり、シュラーッダを8回行った後、プラージャパティヤの供犠を行って主宰神を満足させたのち、持ち物をすべて祭官に譲り渡して、祭火は主宰神にゆだね、すべての望みを放棄し、 サンニヤーシーとなります。
※75才以上になれば、完全な放棄を得ずともサンニヤーシーになってよいとされていたそうです。
衣服をもつなら陰部を覆う腰布だけに限り、杖とカマンダル(水壺)だけを持ち物として、捨てたものは(病気などの)困窮時でないなら再び手にしてはいけません。歩く時には地面をよく見てから足を運び、布で濾した水だけを口にして(どちらも虫を殺さないため)真実か否かを確認してから言葉を語り、良心の声が認めたことだけを行うようにします。
食べ物はブラーフマナの家庭からのみ供物を求め、非難されるものの家を避けて、始めから特定されない7つの家を訪ねそれらの家から得たものだけにします。 ヴァーナプラスタ(林住期)の庵をしばしば訪ねて彼らから施しを受けるようにします。彼らが(落穂ひろいなどで)集めた食べ物は非常な浄化力を持っているので、それを口にすると心が浄化され迷いが除かれ、解放がもたらされるといいます。
食べ物を手に入れたら町や村のはずれにある貯水池に向かい、そこで口を濯いだ後、食べ物を(プラナヴァを12回唱えた)水で聖化して4つに区分し、それぞれ(ヴィシュヌ、ブラフマー、太陽神、すべての生き物)に割り当てた後、ヴィシュヌには水を入れて、生き物には地面の上に置いて、残りの食べ物を自分を自分のものとして沈黙を守って口にします。
如何なる場合であろうと、食物が得られずともそれを嘆かず、それを得たとしても喜ぶべきではありません。ただし、食物を得るための努力は放棄すべきではありません。なぜなら自分の生命を維持することで神理への探求が可能となり、解放を得ることができるからです。
神の意にて与えられた食べ物だけを美味しかろうとまずかろうとそれだけを口にし、自然と手に入れた根どころや衣服を神から与えられたものとして受け取ります。
ブラーフマナがこの世を放棄しようとするのを見て、神々は自分たちを追い越して最高の世界(ブラフマン)に彼が至るのではないかと恐れて、彼が行く道に妻のなどの姿をした様々な障害物を置きます。
※ヴェーダの世界ではヴィシュヌ神を主宰神とし、そのもとに多くの神々がいるとしています。主宰神以外の世界は、ポジションのようなものでカルマに応じてそのポジションを得ますが、有限で入れ替わるものだとされています。そしてに対して人間にはここに示されているような主宰神への絶対的な帰依によって主と一体となることが可能とされており、下級神達が自分たちを超えて人間が主宰神の元へ解脱するのを恐れ邪魔をするということを言っています。
心と感官の制御、非暴力、これらがサンニヤーシーに定められた義務です。沈黙で言葉を諌め、動機ある行為の抑制で身体を諌め、プラーナヤーマで心を諌めます。感官を十分に管理してすべてのものから執着を離してアートマンに喜びを見出して、心の冷静さを保ちながら、すべてのものを平等に眺めてただ一人で世界を放浪します。
人里離れた安全な地に暮らして、主宰神へのバクティで心を浄化して内なるアートマンは主と同じだと理解してそれを瞑想します。
すべての聖地、すべての聖なる山や河、森、庵を訪ねて、施しを求めるためだけに、町や村、牛飼いの里、巡礼宿を訪ねるようにします。
おわりに
いかがですか?現代とは大分離れた人生観に見えるかもしれません。しかし学べば学ぶほど理にかなっているなぁと思うからインド哲学は面白いです。
人生は若いうちはいくらでも時間があるように感じますが、年齢を重ねるうちに肉体的な老化の波とともに”時間がたつのが早い!””気が付いたらこの年齢になっていた(愕然)”といったように肉体の死までのタイムリミットはどんどん近づいてきます。
だからこそ、人間という生類の中でも最も幸福な生き物に生まれた今世を意味あるものにするためにも、どのように生きるべきかという聖典の教えが役に立つのだと思います。
引用・参照:ヴァーガヴァタ・プラーナ第11巻第17話18話