写真:インド人現代アーティストH.N.ハルシャ《ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ》2013年

人間として生まれてきた意味とは

ヴェーダ哲学には輪廻転生の考えがあります。この世に人間として生を受けたのはそれ以前の多くの生での行為(カルマ)の結果によるものだとしています。そして人は生まれながらに今世でこの行為(カルマ)を解消するために最適な時と場所、両親を選んで生まれてきます。

どの人間にとっても究極の目的は輪廻転生から抜け出し、人間の本質であるアートマ―と一体となることです。それは悟りを開いて解脱することでのみ可能になりますが、肉体には常に欲望があり、行為を行い続けているため、今世のみで悟りを得ることは大変難しいことです。

また今世は膨大なカルマの一握りをプララーフダカルマ(今世で解消すべきカルマ)としてもって生まれてきており、これを解消したところが今世での寿命と決まっています。

4種類の人間

人間にはどの両親のもとに生まれてきたかで4種類に分類されます。インドの身分制度カースト(ヴァルナ)制度の元となっている分類ですが、その4種類とはシュードラ(労働者、奴隷)、ヴァイシャ(庶民、農耕・牧畜・手工業にあたる生産者)、クシャトリア(王族、戦士)、ブラフマナ(僧侶、司祭)です。

参考サイト 歴史の窓 http://www.y-history.net/appendix/wh0201-025.html

現代の日本人として生まれてきた私達としては、自分がどの分類として生まれてきているのかは分かりにくいところです。しかし、たとえどの分類に生まれてきたとしても究極の目的は悟りを開くことにあります。次に示す人生の4つの目的の内、自分がどの目的を追いかけて生きているのかを見極め、より悟りに近づく努力をしていくことが大切です。

プルシャールタ 人生の4つの目的

プルシャールタはサンスクリット語のプルシャとアルタが結びついた言葉です。ここではプルシャは、”人間” アルタは、”意味、目的、価値”を表しています。つまり、プルシャアルタとは、”ずっと人間が探し続けていること、人生の目的、自己努力、自分がすべきことをすること”です。

ヴェーダ哲学では、生まれながらの階級によって、その人が今世で目的としているものが決まっているといいます。

分類 人生の目的  目的を達成する方法
シュードラ カーマ 人生の目的が肉体・五感レベルの楽しみにあります。ただし人間は快楽をもとめる欲望にあふれているのでこれを満たすことには何の努力もいりません。このカーマこそ輪廻転生の原因です。このカーマを解消しつくさない限り輪廻転生はおわりません。欲望を解消するには次の3つの方法があります。”夢で見る””実際に経験する””智慧の火で燃やしてしまう”人間として生を受けた最大の理由は欲望を知性でコントロールし欲望の種を燃やしてしまうことにあります。
ヴァイシャ アルタ 人生の目的が働いてお金を得ることにあります。お金を得るためには努力は必要ですが、生活できるレベルのお金を稼ぐことは誰にでも可能です。また今世の富は、過去生で行った善い行い(プンニャカルマ)の分と決まっています。
クシャトリア ダルマ 人生の目的がダルマ(法、正義、使命)にあります。社会を守ることが人生の目的です。これは人間のミニ可能なことで、先の2つの目標に対してかなりの努力を必要とします。
ブラフマナ モークシャ 人生の目的が輪廻転生(サンサーラ)から解放されることにあります。 モークシャとは、ニルヴァーナのことであり、ニルヴァーナとは、ヴァーナは弓矢がないという意味です。弓矢は欲望のことをあらわしており、体に刺さっている無数の欲望の矢をすべて抜くことができればそれがニルヴァーナです。欲望を抑えられるのはヴィヴェーカ(識別能力)だとされています。

前世からの3つの負債

先に述べたように過去生の行為(カルマ)が原因で私たちはこの人生を得ました。種がある限り、木は育ち、また種ができるように、カルマには必ず結果があり、その結果がまた次の原因となって永遠に続いていきます。

この世に人間として生を受けた原因の理由として、私達には 神様とリシ(聖者・先生)と先祖に対して返さなければならない負債があるといいます。

ああ、ヴァースデーヴァよ、ブラーフマナとクシャトリヤ、そしてヴァイシャは、全員が神々とリシ、祖霊に負債を負ってこの世に生まれてきたのです。これらの負債を祭祀の実施、聖典の学修、そして息子を得ることで返済せずに、家庭生活を離れたなら、その者は必ず精神的段階で身を落としてしまうでしょう。 バーガヴァッタ・プラーナ第10巻第84話34-41

この負債は、

神様に対しては、祭祀を実施することで

リシ(聖者・先生)に対しては聖典を学習することで

祖先に対しては、息子を得ることで

返済しなければならないといいます。

バクティこそ誰もに開かれた悟りへの道

悟りを得るためには、ジュニャーナヨーガ(良い師について聖典を学び続けること)とバクティヨーガ(すべてを主への愛として捧げること)とカルマヨーガ(行為をすべて主に捧げること)などの道がありますが、聖典の一つバーガヴァッタ・プラーナの中ではバクティこそ悟りを開きアートマンに至るために最も必要であると度々書かれています。

ナーラダ・バクティ・スートラではバクティの11の姿について次のように書いています。

・主の偉大さを思う

・主の美しさを思う

・主を礼拝する

・主を常に忘れない

・主に仕える

・主に友人のように接する

・主に親のように接する

・主に恋人のように接する

・主にすべてを投げ出す

・主への思いに没頭する

・主との別離に苦しむ

物や情報にあふれかえっている現代では、肉体や心は多くの欲望を生み出し快楽を追及しています。にもかかわらず、自分が常に幸せで満たされていると感じている人は多くありません。

物質レベルで欲望が満たされるのはそれが手に入ったその瞬間に過ぎず、手に入った途端にまたあらたな欲望と手に入らない不満が生れてきます。

ということは、肉体や心の欲望を満たすことには永遠に続く安息はないということです。

最も古くから受け継がれている聖典の中には、どれだけ歴史を重ねても繰り返される人間の欲望を満たす愚かさが描かれています。

人間として生まれてきたこということは奇跡的に幸せなことであるにもかかわらず、限られた寿命はあっという間に過ぎてしまいます。この時間という限界の中で、この生を無駄にしないためには、ひと時も時間を無駄にできないという気持ちになります。

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